ミサさん

 平成5年(1993)8月13日午前、特別養護老人ホーム長命園(松江市上乃木町、定員80人)園長の私は例年のように、園の二階ホールで松江市寺町西福寺住職西山昭道師をお招きし、盆法要を行ないました。西山昭道師は元教員、島根県教職員組合三役経験者で、私の弟丈夫の妻不二子の実家山根家の縁者。昭和53年、教員を定年退職した後、八雲台一丁目に開設されたこばと保育園の初代園長に、私が懇請して就任された方です。当時はこばと保育園からも引退され、養家西福寺の仏事に専念中でした。

 長命園は傾斜地を造成しているので、園庭側から入ると一階が実は建物としては二階になる構造で、園庭を抱いてL字型にウイングを広げています。L字建物の直角部の内側の一室を、私はホールとして造らせていました。「寝たきり」とみられる入所者にも、昼間の活動の場所がほしかったからです。はじめホールは二階だけで、三階には造らなかったのですが、園が機能しはじめると、ホールが三階にもほしくなり、静養室に居室を移しそのスペースをホールにしました。盆法要は二階ホールに祭壇をつくりお灯明や香炉を置いて営まれるのでした。

 園長の私は、読経のあと昨年来なくなった方の思い出にふれながら挨拶し、焼香をしました。まさかその夜、法要に参加して焼香した入園者お年よりの一人を、急症で突然に失う運命が待っているとは、夢にも思いませんでした。

 その夜、暦が変わって14日午前1時過ぎ、園の夜勤職員藤原和美ナースから電話。入園者大田ミサさんが急変、呼吸停止、救急車で入院との報告でした。私は慌てて松江生協病院救急外来に駆けつけました。顔なじみの門脇章子看護婦や永原医師などのスタッフにより懸命の蘇生措置が講ぜられていましたが、キレた命の糸はもう繋がってくれませんでした。あっという間もないお別れでした。

 長命園では入園者「処遇」にあたる職員の職名を、法令用語の「寮母」ではなく、「ナース」と園規則で定めていました。そのわけは、長命園施設要覧に私はこう書いています。 「長命園ではお年よりのお世話をする職種の名をナースと定めています。役所用語の「寮母」では、脳卒中、パーキンソン、骨の疾患などの不自由とたたかうお年よりの処遇(ケア)の第一線に献身する人々の名にふさわしくないと思えるからです。ナース、それは、爪切り髭剃りから入浴、排泄、食事のお世話、心身両面にわたるリハビリテーション、医療の分野にまで研鑽と経験を深めつつ活躍する誇り高い職種です。」

 大田ミサさんは、大正6年雲南市大東町遠所の生まれ、昭和20年5月に松江市宍道町来待に嫁入り、先妻の残した13歳をかしらに3人の男子に加え、昭和21年と25年にミサさんの生んだ二人の男子、あわせて5人の子供を抱えた結婚生活は、幸せに経過していたのですが、昭和45年頃からミサさんの足に力が入らず歩行不如意の状態になりました。昭和49年に夫逝去。ミサさんは育児や家事は家の中を這いずり回って用を足していたものの、入院して「頚椎後縦靭帯骨化症」と難病の診断を得、病院を転々とした後、昭和57年玉造厚生年金病院に入院、そして昭和58年8月に老人福祉法の措置で、開設後まだ二ヶ月の長命園に入園したのです。

 あれから丁度十年、いろいろなお世話の苦労がありましたが、「いりません。」と言ったら絶対口を開かぬミサさんの食事介助には、特別にみんなで随分苦労をしました。私は、やっと口にしてもらったとたん、ぷっとそれを吹き付けられて眼が見えなくなったこともしばしばでした。しかし長い苦労の末には、私たちの気持ちが通じて、私の運ぶスプーンなら、嫌いな人参や豆腐でも眼をつむってゴクンと食べてもらえるようになり、食堂でミサさんの隣に座って介助するのが楽しみになるうれしい時期が待っていたのでした。

 離床し、特製車椅子で朝礼に参加するミサさんに、せめて歌を歌ってもらおうと肩を抱き頬をくっつけるようにマイクを向けていた毎日。「もしもし亀よ」を歌ってもらえるようになり、朝礼のオープニングに毎朝何ヶ月も繰り返したこと、結局これが私の在職した長命園の「歌う朝礼」になったのでした。

 朝礼はあおぞら八重垣でさらに進化し、「園の暮らし」の最重要の導入部です。午前9時にラジオ体操をみんなでし、続いて園長の私が挨拶と「面白くてためになり、話題性のある」5分から10分の講話をし、その日の食事の説明をします。講話の材料は、前の日までに新聞TV雑誌から仕入れます。これがなかなかの苦労で勉強になることです。その後はカラオケを使ってみんなで歌を歌います。これがいまの朝礼です。

 さて、ミサさんは自身でおっしゃったとおり、「口は達者」で頓知に富み、冗談を言い合って私たちを楽しませてくれました。世間話のついでに聴きだすと、雲南市木次町で永く教職にあり、私の父母の恩師で、結婚の際の仲人でもある、洞光寺下の藤原藤之助先生は、ミサさんのおじさんであったと知ることもできました。

 ミサさんは長命園草創期の十年を通じて、お年よりというもの、介護というものを身をもって教えて下さった、かけがえのない教師の一人でした。

 この時期にミサさんのお世話を通じてみんなで学んだ原理は、介護とは介護者と被介護者のCOMMUNICATIONつまり、意思疎通に尽きるということです。お互いに心を開きあい、心が通い合って始めて介護が成立するということ。別の言い方をすると、お年よりのお世話・介護とは、介護者と被介護者の「ふれあい」に始まる「共同事業」なので、どちらか一方の思い込みだけでは、お世話・介護にならないということです。心を開きあうのに必要な時間は、短くてすむ場合もあり、何年かかってもできない場合もあります。介護者の意識改革が求められます。後に平成17年になって認知症介護をINTERACTION(相互行為)と書いている著作を読み、認知症もCOMMUNICATIONなのだと、同感しました。

 そしてミサさんは、その人生の最後には、全力投球の人生に一貫するなら誰にでも、神様はご褒美に、死際の病苦を短く済ましてくれるという医学の真理をも、長命園のみんなに教えてくれた、と言っていいでしょう。

 当時の長命園で、毎日の園生活の日課に真剣に取り組み、リハビリに精出し車椅子を懸命に自操していた入園者石倉君子さんも、昼食を済まして自分で帰室し、職員にベッドに上げてもらい横になられた状態で、まもなく呼吸停止・心臓停止に陥り、逝去されました。

 あおぞら八重垣では、私の雑賀国民学校5年生時代の担任訓導中島正元先生の夫人元教員中島顕子さんは、肺癌末期の苦しみに耐えて、朝礼やリハビリはもちろん、入園以来毎週の書道教室に精勤されていましたが、呼吸苦を訴えて入院、数日で逝去されています。

 国連の「高齢者問題国際行動計画」(1982年8月6日)の行動勧告の中に、 「53、疫学上の研究によれば、同年齢に達する高齢者のコーホ-ト(同時出生集団)をとってみると、その健康水準は年々向上しており、男女ともますます寿命が延びるにつれ、機能障害の大部分は死亡の直前の短い時期に限られるであろうことが予想される。」と書かれています。また、望ましい死に方として垂直死をあげる新しい考えもあります。次に紹介しましょう。

 「それは人生最後の死を高齢で、『垂直死』という形で迎える傾向に近づきつつあることを意味している。『垂直死』とはグラフの横軸に年齢を、縦軸に健康度をとって、個人の一生の健康度曲線を描いたとき、年齢とともに健康度曲線はゆるやかに低下していくが、曲線の右端がある年齢で垂直に近く落ちることからイメージされる用語である。生存率曲線から、そうした傾向が観察されるが、この傾向はさらにすすみ、よりいっそう垂直死に近づくことがのぞまれる。」(岩波新書2009年9月刊・祖父江逸郎「長寿を科学する」148頁)

 私はあおぞら八重垣はお年よりの終栖ついのすみかであると思っています。百壽者CENTENARIANが平成22年5月で、9人いらっしゃいますが、現入園者120人全員の方に最低百歳をゴールにかけがえのない人生を生き抜いてもらいたいものと考えています。百歳めざすレースを駆けぬいてぱったり力尽きる、記録が何歳であれ、これこそ幸せというべきでないでしょうか。このようなお別れの最初の経験が、平成5年お盆14日早朝ミサさんとの別れだったのです。

 ミサさんへの「神様のご褒美」でなくて何でしょうか?