第一章「長命学園」春秋記

第一章目次

  • はじめに
  • 思えば夢か時の間に
  • 園長講話
  • 開園を準備しながら考える
  • 特養とは何をするところか
  • 「七人の師」
  • 「創設期」を終えるにあたって
  • にがい涙とたのしい思い出と
  • 悲報来
  • 「だった人」の施設です
  • 「春がきた・はるがきた」

はじめに

お年よりに何より大切なのは食事です。

食事の箸がすすまなくなったり、お茶を飲もうとしなくなったりすると、その方は急激に病気に落ちこんでしまう場合がほとんどです。このような事例をいくつか経験しましたので、食堂で会食しながら私どもがもっとも気をつけるのはお年よりの「箸のすすみ具合」(摂食状況)です。障害のためスプーン操作がうまくできない人には、はげましながらゆっくり全量摂取を終わってもらうよう心がけるのですが、お年よりのなかには、遠慮からか諦めからか、まだ欲しい食事を残したまま中止しようとする方があります。

忙しい時間ですから私たちもつい、「もうすんだかね。もっと食べらないけんがね」などと声かけつつも、全量摂食の目標は放棄して食器を方つけてしまうこともあります。「もっとお茶を飲まれませんと、病院にはいって注射になりますよ」とおどかしながらお茶を進めたりもします。

ある日、主任会議の始まる前の雑談の折にこんなことが話題となり、私は「声をかけて摂食をすすめる、お茶をすすめる、それでもすすまない人にはさらに大きな声ですすめる。それもよいけれど私たちの手もかけなければねエ」、と話したことがありました。するとナース室の掲示板に「説教ばかりでなく手をかける処遇」について、みんなで心がけようとのよびかけがまもなく書き出されました。声かけとともにてをかけることとは、車椅子による歩行でも同様です。園の廊下をうまく動けずにいるお年よりに、「自分でがんばってね」と声掛けるばかりで通り過ぎるだけでは、車椅子による歩行技術の体得は、麻痺のあるお年寄りには難しい仕事だからです。

このような気持ちでお年寄りと毎日暮らしながら、園のニュースや週間新聞などに書かせていただいた私の文章の一部を、この章にあつめさせて頂きました。私が未経験の不肖の園長として考え、主任会議や職員会議で話し、訴えてきたことについても記録についてまとめてみました。入園者の方々に開園早々にお話しした「園長講話」原稿も再録しました。

今後の私たちにとって最大の課題は「長命園におけるリハビリテーション論の確立」だろうと感じています。その模索の一つとしてお読みいただければ幸に思います。 「長命学園春秋記」と題しました理由は「七人の師」に書いたとおりです。

(「はじめに」終)

思えば夢か時の間に

七時半からの朝食がすむと、身仕舞いをしてからお年よりはホールに集います。九時になるとほぼ全員が顔を揃えてラジオ体操、続いて「村のうた」(園の二階は平和村、三階はふるさと村とそれぞれ入園者の投票で命名)童謡、今月のうた、数え歌体操などを朝の挨拶、連絡事項などの話し合いも交えて四十分近くも続けます。これが長命園の朝礼です。

テープ音楽が流れ、元気な歌声がひびき、お年よりが鳴らすタンブリン・カスタネットがこれに加勢します。朝礼には日勤職員が参加してお年より一人ひとりに声をかけ、全身の表情を観察します。この間に看護婦は脈や血圧をみたり、眼科や皮膚科の薬剤処置に懸命。電気カミソリをあてたり、手足の爪切りをしている職員もいます。

ごく短い時間ですが、その日のスタートをベストでと、お年よりと職員の気持ちが集中するひと時です。新入園者やショートステイの方、見学や実習の方が紹介されるのもこのときです。

昨年六月一日開園の日に入園されたお年よりは七人でした。その翌日から毎朝九時にラジオ体操の園内放送にあわせて入園者、職員みんなで体操することになりました。

日曜祭日を除く毎朝九時前になると私が二階(平和村)ホールに顔を出し、お年よりと雑談をしながら放送開始を待ちます。音楽が始まり第一第二体操を続けた後はしばらく雑談です。日によっては私のほかに一人も顔がそろわないこともありましたが、ひと月もするうちにラジオ体操の時間が入園者の暮らしの中に次第に定着してきました。

ラジオ体操には、両足を揃えて跳び上がったり、跳びあがって開いたり閉じたり、片足を高く上げて跳びあがったりの動作があります。私が演技する体操を真似て体を動かしてきたお年よりは、第一体操の跳びあがって足を開閉するところではついていけず、恥ずかしそうにぎこちなく笑って眺めているのでした。そこで私は、体操のこの部分は全部「足ふみ」にしてしまいました。足ふみも出来ない人は「手を叩く」ことにしました。 両足で立って体操のできる人はほとんどありません。長いすや車椅子に座って腕や首を動かすのがやっとのお年よりのラジオ体操の日課がこうして始まったのです。

入園者が定員八十人いっぱいとなった昭和五八年十月一日、四十人が生活する園の二階を「平和村」と名づけ開村式が行われました。この時「村のうた」が欲しいというお年よりの要望にこたえて、私が作詞して「平和村の歌」が出来ました。次の通りです。

思えば夢か時の間に
人生半ばを走りきて
名は長命の平和村
さらにいそしむ人の道
ここに平和のむらびとを
父よ母よとしたいきて
娘・息子が手をとりて
ひとあし新たな人生を

「鉄道唱歌」のふしで歌うことにしましたが、「兎と亀」でも「だいこくさま」でも「水師営の会見」でも「戦友」でも歌うことができます。毎朝ラジオ体操の後にこのうたを歌っていたところ、入園者内藤タケノさんが三番四番を作詞、同じく野々村正雄さんが五番、森脇カツさんが六番と続きました。

内藤タケノさんの提案で、この時間を「朝礼」とよぶことにしました。「平和村の歌」を歌ってから次は皆さんにふるい唄を歌ってもらいました。「水師営の会見」を全部正確に歌える方があってびっくりしたり、草津節に沢山の歌詞が披露されたり、毎朝新鮮な感動がありました。あまり歌を知らない、歌いたがらない方には「兎と亀」を一緒に歌うことにしました。

「居眠りをするとのろまの亀に負けますよ」などリハビリの話をしながら歌いました。一人の方に必ず最後まで正確な歌詞でうたってもらうよう努力しました。ほとんど発語できない人の懸命の歌声、歌うにつれ平素は動かない肩がひろがり胸がつよく波うつのに私自身が感動しながらともに歌いました。

一月あとの十一月一日には、三階が入園者の総意で「ふるさと村」と命名され、開村式が行われました。しかし平和村と違ってホールがないため、朝食の後そのまま食堂に残って歌う集いを持っていましたが、なぜか盛り上がらず、二階の楽しそうな歌声に取り残されがちでした。三階のお年よりは二階の方よりも重度障害の方が多いから「朝礼」なんかとてもと考えている職員もありました。

朝礼を終えた二階の入園者は、朝十時にはエレベーターで三階に上がって機能回復訓練室に向かいます。この頃の三階には二階のような暮らしのリズムを生み出せず、取り残されて食堂や廊下で車椅子に座ったままじっとしているお年寄りが幾人もありました。朝礼を終えおしっこの終わった二階のお年よりの車椅子を押したり手を引いたりで通りかかった私が、これらの三階のお年よりに声をかけて訓練室に誘導しようとすると、三階の職員に「まだまだ、お尻をきれいにしてから」と静止されたものです。三階では食事と排泄の後で、おむつ交換、清拭の作業が必須だったからです。

二階と三階に生活の質の格差が生まれていました。「ホール(朝礼の場)のあるなしではない、仕事のやり方一つだ。基本理念の学習をもっと深めなきゃ」と考えてきた私も、年末には三階にも、二階と同じホールを設置する改装を決意しました。

園内の模様替え工事が終わって、三階ホールが誕生したのは昭和五九年四月一日のこと。この日からこれまで二階主任だった山崎ナース第一主任が三階を受け持つことになりました。平和村(二階)の朝礼は渡辺ナース第二主任に任せて、私はふるさと村の朝礼に出席することとし、「お土産」に鉄道唱歌のふしで歌う「ふるさと村の歌」の歌詞を持って行き、二階に負けないように歌ってもらうこととしました。

朝礼の後のトイレ誘導もきちんと始まりました。一月もたたぬうちに特色のある朝礼の時間をつくり出せるようになりました。五月からは私は、月水金をふるさと村、火木土を平和村と、職員の要望で決められました。

長命園の朝礼「定着」は、このように一年かかりました。

朝礼が終わるとトイレが混み合います。廊下には順番待ちの車椅子の行列です。(トイレは一箇所しかありません。)トイレでは主任はじめナースが介助に汗を流しています。もちろん立ち上がり能力の判定から排泄物の観察まで抜かりなく、声掛け・会話がにぎやかです。

「トイレのできる人が多いですねえ」 さも不思議そうにこうおっしゃる方もあります。「ハイ」と私は答えます。それを支えている職員の献身をみてほしい、といいたい気持ちを抑えながらにです。

十時過ぎからお年よりは機能回復訓練室でそれぞれのプログラムに汗を流します。

発達保障を掲げた(草創期の)長命園の朝はこのように過ごされています。

(「思えば夢か時の間に」終)

園長講話(昭和五八年七月二十六日二階食堂)

私が園長の加藤曉でございます。今日は入園者の皆様のおやつのお茶会の時間を拝借しまして、少しばかりお話を申し上げたいと思います。つたない話で恐縮ですが、しばらくおつきあい下さいます様よろしくお願いします。

このような園長講話をさせていただくのはこれが始めてでございます。ここに字を書いてきました。(ここで模造紙に大きく「始」とかいたものをひろげる)始めまして、どうぞよろしくお願いします。始という文字の意味には二つあるそうです。「ことの始まり、最初」という意味と、もうひとつは「一番重要なこと」という意味です。始ということは一番大切である、というのは何事においてもそうだろうと思います。

今日ここにお顔を揃えていらっしゃる皆様は、「長命園に入りなさい」といわれた時に、いろいろおそらくご心配なさったことと思います。「いよいよ自分も家族や世間から見捨てられてしまった。自分の人生もついに最後か」(ここで「終」と大きく書いた紙を広げる)

「ご臨終だ」とはお考えにならないまでも、淋しい気持ちをもたれたのではありませんか。 そこで私は今日は皆様に、そうではありません「始まりですよ」(「始」と書いた先ほどの紙を広げる)ということをお話したいのであります。長命園とはどんなところか、ということからお話させていただきたいと思います。

私は昭和七年一月二一日生れ、今年五十一歳であります。あまり大きな病気はせずに割合に元気に暮らしておるように見えますが、実は「最低血圧」というのが高くて一○○くらいあります。最高血圧は一三○くらいですから最低血圧との間があまりなくて、よろしくないそうで服薬を続けております。

下手をすると六十歳七十歳になりましてから中気がつかないともかぎりません。元気なようでも年を重ねますと病気がでがちになることはさけられません。中気がつきますと、これは頭のなかの病気ですが、手足が麻痺したりものが言えなくなったりします。意識不明の重態になることもあり、頭の中の手術をしたり、大変なことになります。ご家族のご苦労、心労も大変なことです。

さて、年よりのこうした病気は、お医者さんがいろいろ手をつくして命をとりとめてもらった「もうよし、直った」といわれてから後の手当が大変重要です。

特別養護老人ホームというものは、病気はなおったが、不自由になったお年よりで、家族が働いているなどの理由でその方のお世話ができない、こういう方をお迎えしてお世話をするところでございます。

こうした特別養護老人ホームの中でも、長命園には他の施設とは違う「特色」を持っています。(大きく「発達保障」と書いた紙を示す)長命園に入ってもう自分の人生は終わりかなあと、お考えになる方に、そうではありません。「始まり」ですと私がさっき申し上げましたのは、発達保障の考え方です。

年寄りになって、八十歳にも九十歳にもなって「発達」などとんでもないとお考えになる向きもあるかもしれません。仮にいま、健全な発達をとげている人を「丸」に見立てますと、障害ある不自由なお年よりは、七つも八つもへこんだいびつな形をしています。このいびつを直すのはお年より自身の努力ですが、それをお手伝いしましょう。とりあえずは代わりにでも動作してあげてお役に立ってあげましょう。

これが「発達保障」の考え方です。人生のカーブが下向きになるのを支えて差上げる、ということです。九十歳には九十歳なりに、八十歳には八十歳なりに、身体と心、全人格的な発達をとげていただこうというのが、長命園の基本理念であります。

このような考え方で、いろいろご不自由で自宅や病院で寝たきりで暮らしてこられた方々にも、何とかお手伝いしてベッドから離れていただきたい、できたらもう一度歩けるようになってほしい、このような願いを持って皆様と毎日の暮らしをともにさせていただきたいと考えておりますので、どうぞよろしくお願いします。

(「園長講話」終)

開園を準備しながら考える

特別養護老人ホーム「長命園」は昭和五八年六月一日開園されました。経営主体である社会福祉法人こばと福祉会理事会は昭和五七年十二月八日、長命園の「職員就業規則」「臨時職員就業規則」「運営管理規則」「給与規定」「人事に関する規則」を、全員一致で決定しました。これらの規則は、先輩である「ひまわり園」(出雲市)の例に倣いながら、東社協編「民間社会福祉施設運営の手引」も参考して作成されました。

しかし、他施設の規則類にない長命園独特の大胆な規定もあり、これらは開園してからの長命園の運営や処遇全般の大きな特色となっています。

第一に、長命園の基本理念に「発達保障」を掲げたことです。運営管理規則第三条(方針)には次のようにかかれてあります。 「園運営にあたっては、被収容者の既往の生活関係、環境等の充分な理解と病歴等等心身の条件の把握の上にたって、地域社会の援護を受けつつ、園職員の団結した活動により、被収容者の人格と権利を尊重し、身体及び精神の健全で充分な発達を図ることを基本とする。」

この文章はよその模範例による「借り物」ではなく、私自身が考えぬいた案文を理事会で採用してもらったものです。入園者の全面把握と理解の上にたって、地域からの支援と職員の団結のより、入園者本位に「心身の欠陥」のため妨げられている入園者お年よりの発達の恢復と発展を図りたい、というものです。この理念は後に開設許可申請の際に提出する事業計画書にも明記されました。

第二に、長命園の職種名に「ナース(寮母)」を採用したことです。特別養護老人ホーム職員定数は収容人員八十人の長命園で三十二人、内「寮母」が十八人というのが国の基準です。「寮母」とは工場や学校の寮で「寄宿生の世話をする女性」と広辞苑にかかれています。長命園では、入園者の全面把握と発達保障をはかる第一線にたつ職種名として「寮母」は適当でないと考えました。男性が進出する職種ですが、「寮夫」でも「寮父」でもぴったりしません。

ナースnurseとは、オクスフォード辞典PODによるとperson trained for care of the sick「病弱者のお世話をする訓練を受けた人」とされ、男女を問いません。理事会では検討の後「ナース(寮母)」と就業規則に職種名を明記することにしました。

第三に、週四十四時間制を就業規則に明記したことです。

年が明けて昭和五十八年三月二十七日、完成した長命園三階食堂で「長命園採用予定者」打合せ会が開かれました。ここで始めて採用予定者が顔を合わせ、園長、主任の予定者が紹介され、六月一日開園めざし諸準備と研修を始めることとなりました。

この集会で私は「長命園建設経過と基本理念等について報告」していますが、そのレジメの一部を次に紹介してみます。

  • 「昭和四一年、松江生協病院の西津田町への移転とこばと保育園(無認可)の開設
  • 昭和四五年、老人健診ワンタッチ方式実現と保健の会結成、
  • 昭和五一年、市有地(八雲台)払下げとこばと保育園移転「認可化」運動
  • 昭和五二年、社会福祉法人松江福祉公社の設立発起人会結成(代表者加藤曉)
  • 昭和五三年十一月、社会福祉法人こばと福祉会設立、初代理事長松井秀枝生協病院長
  • 昭和五四年四月、こばと保育園開設
  • 昭和五五年四月、特養「長命園」設立の申出」

以上が経過報告部分ですが、いくつか説明を加えておきます。

社会福祉法人こばと福祉会設立のきっかけとなった「無認可こばと保育園」の開設は、私が事務長をさせていただいていた松江生協病院が、幸町から西津田町に新築移転した跡地利用のため計画されたものでした。幸町の病院建物と土地は、西津田町の移転用地取得費に当てるため売却するはずでした。

しかし私は幸町診療所の新設による医業収益と、一部を保育園に賃貸する不動産収益で、売却代金相当額の利息以上の収益がある事を力説し、幸町の病院跡は処分せずに今日に及ぶことになりました。もっとも、毎月三万円の家賃を支払うことはこばと保育園にとって大変だったようで、滞納が重なり、とうとう保育園運営委員会は生協側に「家賃無料化」要求をすることになります。

昭和四五年四月、老人サークル「保健の会」(持田光太郎会長)が結成され、私は初代事務局長に就任しました。保健の会は老人健康審査の実施、松江市にも特別養護老人ホームをつくれ、などの要求で斉藤松江市長に面会し、申し入れるなどの活動をしました。松江生協病院では、独自に無料で訪問による老人健診に取り組む活動を展開しました。私自身には老人福祉に関心を持ち始める時期となりました。

昭和五二年無認可こばと保育園の移転・認可化をめざして社会福祉法人設立運動が始まりました。この法人は、こばと保育園のほかにも複数施設を経営することも予想して「社会福祉法人松江福祉公社」と名乗ることとしていました。

こばと保育園用地に八雲台市有地の払下げを受けるためには、競願者との間にさまざまなことがあり、用地取得費の捻出にも私の思い違い(?)による手違いも生ずるなど、忘れられない事件がありました。水道のない土地でしたが、折りよく私が住民運動化していた「松江市八雲台水道組合」設立のお蔭で給水を受けることができました。

こばと保育園オープンの年の八月私は「湖南老人福祉施設建設事業計画案」を松江福祉公社理事会に提出しました。用地については緑山四中隣接山林も検討対象に上がりましたが、価格と下水処理に難があり、大庭町運動公園南側山林が有力候補となりました。

五四年十二月には当時の松井理事長と一緒に大庭野山組合の役員会に何度も出席して交渉したこともあります。この計画はこばと福祉会の老人ホームと松江保健生協の「第二生協病院」を隣り合わせに建てようというものでしたが、数次にわたる交渉がすすみましたものの、松江保健生協はこの事業から手を引くことになりました。

この用地の西側に市有地約八百坪があり、この払い下げについても市に要望していましたところ、松江市福祉事務所長の示唆もあり、この部分だけで特養をつくることとし、第二生協病院ぬきで話はすすんでいきました。

昭和五五年十月末、松井理事長任期満了退任、変わって濱田泰則医師(生協病院)が理事長になり、同じく生協病院医師黒谷明嗣氏に私を加えて理事のうち三人が長命園建設委員会を構成しました。

こばと保育園建設では、資金が予定通りに集まらぬこと、設計変更で工事金の追加があったことなどで、大変辛い荷を負わざるを得なかった苦い体験から、長命園建設に当っては、工事期間中の設計変更は絶対にしない、そのために事前の検討を充分にと心がけました。

また、資金計画の上でも寄付金への依存は最小限とし、寄付金は着工までに集めることを実行しました。 ただ、補助金・融資の対象外となる用地取得費、金利ふくめ約二千万円については、はじめ園内診療所の保険診療報酬によることを予定し、県社会課の審査もパスして社会福祉事業振興会から一億二千三百八十万円融資(県による元利補給つき)が決定はしたものの、その後の国庫補助申請の段階で、県の指導で寄付金等の別途財源で取得することに計画変更させられました。

結局長命園の事業でも用地取得費が重荷となって残ることになりました。

さらに私は、この昭和五十八年三月二十七日の会議で、「長命園のめざす新しい特養像の提起」として、老人福祉法や高齢者問題世界会議(一九八二・昭和57年ウイーン)を引用し、発達保障の基本理念にもふれて話しました。老俳人塚本桐一葉の入院生活と死にめぐり合って、老人問題に志を立てた話もしました。 「高齢者問題国際行動計画」は、国連第三三回総会決議により開催された「高齢者問題世界会議」で百二十三カ国の政府代表の全員一致で採択されたものです。

行動計画は、人類の健康の向上と寿命の伸長からすると「機能障害の大部分は死亡の直前の短い期間に限られる」ようになるだろうと予想しており、人類の知恵の発展は老後の生活にも明るい希望を与えています。

また「障害を緩和し、残存機能を再訓練し、苦痛を和らげ、精神の明晰さ、安息、尊厳を維持しながら、もう一度希望を持たせ人生計画を立てさせるようにする。そのためのケアは、特に高齢者の場合には治療と同様に重要である。」との「勧告」は、長命園で考えていること、発達保障理念とピッタリ一致するもので、私とスタッフの意を強くさせるものでした。

行動計画では、高齢者問題は単に保護やケアを提供するという問題にとどまらず、高齢者の社会への「関与と参加」の問題であるという風に、見方を根本的に転換させねばならぬだろうとも指摘し、高齢者の人数と影響が増大すると、高齢者集団の意思統一が社会にも積極的な働きをするとのべています。このことは、高齢者問題の真の解決は軍拡競争の停止と、軍事目的に乱費されている資源を社会開発ニーズへの活用を図らねば到達できないと述べているくだりとともに今後もみんなで考えてみたいところです。

(「開園を準備しながら考える」終)

特養とは何をするところか

昭和五八年六月一日、七人の入園者を迎えて長命園はオープンしました。

私にとってはまったくの初体験の園長生活が始まったんです。職員にとってもほぼ同じで、長い人でも僅か一・二年程度しか特養の経験しかない職員集団ですから、素人の寄り集まりと行っても言い過ぎではありません。しかし新しい特養増を創造するのだという意気込みは高く、皆で熱心に創設期の無我夢中の毎日を過ごしました。

私はすでに、昭和五五年春から社会福祉施設施設長資格認定講習を受講し、通信教育では社会保障論、社会福祉概論など九科目、面接授業で施設長論、施設運営論など七科目を学び翌五六年三月終了証を受領しました。五八年六月施設長に就任したところ、厚生省委託の施設長講習を受講しなさいとのことで、AコースBコース特別コースの三課程を履修しました。

これらの学習を通じて「特養とは何をするところか」改めて考えさせられました。その学習と研鑽の成果として、「特養論への私のあプローチの一歩としての長命園の基本方針を考える」というメモをまとめ、こばと福祉会理事会と長命園主任会議で報告しました。要旨を次に示します。

「特別養護老人ホームとは、「老人福祉法第十一条第一項第三号の措置を受けたものを収容し養護することを目的とする施設とする」とされている。」とされている。「措置」とは、「六五歳以上のものであって、身体上または精神上著しい欠陥があるため常時の介護を必要とし、かつ居宅においてこれを受けることが困難なものを当該地方公共団体の設置する特別養護老人ホームに収容し、または当該地方公共団体以外のものの設置する特別養護老人ホームに収容を委託すること」つまり「収容」または「収容の委託」である。

老人福祉法のこれら条文によると措置を受けるには、一に年齢、二に欠陥、三に居宅困難という三つの条件がある。収容(受託)施設としての特養には、「常時の介護」と居宅にかわる「居住の提供」という二つの要件があることになるが、その詳細な中身は、老人福祉法第十七条で厚生大臣が設備及び運営の基準を定めることとされ、昭和四一年七月一日厚生省令第一九号「養護老人ホーム及び特別養護老人ホームの設備及び運営に関する基準」が出されている。

この基準は第二条で、基本方針として「被収容者に対し、健全な環境のもとで、社会福祉事業に関する熱意及び能力を有する職員による適切な処遇をおこなう」と定め、職員の資格要件と専従、管理規定の制定、帳簿の整備、非常災害対策などに続いて設備の基準、職員配置の基準に続いて規模、給食、職員の健康管理、衛生、生活指導、介護、医療などが基本方針の具体化として列記されている。

常時介護が必要な「身体上、精神上の著しい欠陥」とは何なのか、については法律も省令も一言もふれていない。「身体上、精神上の著しい欠陥」の定義について、心身障害者対策基本法による心身障害者の定義を借りると「肢体不自由、視覚障害、聴覚障害、平衡機能障害、音声機能障害もしくは言語機能障害、心臓機能障害、呼吸機能障害等の固定的臓器機能障害又は精神薄弱等の精神的欠陥(以下「心身障害」と総称する)があるため長期にわたり日常生活又は社会生活に相当な制限を受けるもの」ということになる。

老人特有の「欠陥」はこの定義から脱けてはいないだろうか。

欠陥=障害によって制限、抑圧されることからの解放、つまり発達保障は、広義のリハビリテーションの理念である。上田敏氏は、リハビリテーションの基本的アプローチを、機能、形態障害に対する治療的アプローチ、能力障害に対しては適応的アプローチ、社会的不利に対しては環境改善、改革的アプローチ心理的問題に対しては心理的アプローチの四種を示している。

わが長命園の基本方針はすでに示したとおり、「被収容者の既往の生活関係、環境等の充分な理解と病歴等心身の条件の把握の上にたって、地域社会の援護を受けつつ、園職員の団結した活動により、被収容者の人格と権利を尊重し、身体及び精神の健全で充分な発達をはかること」であり、リハビリテーション學の到達である「人間的復権」理論との共通部分の研究により、内容の具体化、生命感ある処遇理論にすすむことができるのではなかろうか。

特養にはどのような老人を措置するのか、厚生省社会局長通知「老人ホームへの収容等の措置の実施について」(昭和三八年七月三一日)によると、「身体上又は精神上の著しい障害のため、常時臥床しており、かつその状態が継続すると認められる場合」と「身体上又は精神上の著しい障害のため、常時臥床していないが、食事、排便、寝起き等日常生活の用の大半を他の介助によらなければならない状態にあり、かつ、その状態が継続すると認められる場合」のいずれかに該当する場合に行うこととされ「常時臥床」が措置のめやすとされている。

措置権者は福祉事務所長、つまり行政側で、施設側は措置権者のこの「収容依頼」をよほどのことでない限り拒むことはできない。このように収容される被措置老人に対してどのような施設ケアが求められているだろうか。

疾病は治癒し障害は残っていないのに、熱発や骨折捻挫をきっかけに「常時臥床」し寝たきり生活をしている老人もいる。逆に疾病がありその後遺症に悩んでいても、かなりの程度まで自立できて、寝たきりから解放されている人もある。田中多聞氏のように寝たきり老人の発生(寝たきり症候群の発症)は「臓器、器官、組織等の器質的疾患によるものよりもケアレスミス、ミスケアによるものが多い。」とみることができる。

老年期の病人には、医者がもう治癒したと診断した時点以降の手厚いケアが求められるが、この時期の充分なケアに恵まれなかった老人たちが、被措置老人の殆どすべてであるということになる。「もっとも濃厚かつ慎重なケアをしなければならない時期は、退院後及び通院中のケアであり、医療関係者の手を離れた後から老人医療の本番が始まる。」(田中多聞氏)ここでいう「老人医療の本番」とは疾患への器質的医療の本番を指しているのではない。

この本番に主役を勤めるのは誰だろうか?田中多聞氏自身は特養を「非治療的、被専門的で生涯収容を目的とする福祉施設」とよび、特養の役割に否定的である。

しかし、特養と協力病院の協力強化など、「特養プラス医療」の有機的結合を創造することで、本番の主役を演ずることはできる、というのが私の信念である。

私自身が夜間入浴の介助にも入りながら考え続けていたことのまとめでした。

(「特養とは何をするところか」終)

「七人の師」

一九八三・昭和五八年六月一日、特別養護老人ホーム長命園開園の朝は、からりと晴れた初夏の空が広がり、前日に辞令交付式を終えたばかりの職員が目を輝かせて出勤してきました。

それぞれ開園に先立って、実習や研修会を重ねてきたのですが、いよいよ入園者を迎える朝には、開園後の未知の生活への不安と創造的な意欲とで、それそれに胸の高鳴る思いがありました。

私事にもふれて書きますと、園長の重責を担うことになった私にはさらに複雑な感情の起伏がありました。

二十年の保健生協病院・診療所の事務長・専務としての活動、それに続く十二年の日本共産党松江市議会議員としての毎日、そのなかで取り組んできたこばと保育園つくり、生協での老人福祉運動の延長・発展としての特別養護老人ホーム新設の運動・・・

そしてその施設の完成と前後して施行された市議選挙での予想もせぬ落選。

気を取り直して園長予定者として開園の準備に専念してきた日々・・・

この数ヶ月、私の人生のなかでもっとも劇的な変動の日々は、長命園の理想と目標、職員の専門性の確立など、それからそれへと人知れず考え悩んだ日々でもありました。

開園の日に玄関には歓迎の掲示をすることにしていましたが、議論の末に「おいでました」と書くことになり、そのまわりを紅白のテープで飾り、入園第一号の方にテープカットをしてもらう用意をしました。

やがてにぎやかに予定者全員が入園され、長命園がスタートしました。開園初日の入園者は七名でした。初めての食事の献立は、アゴ(飛魚)塩焼、大根おろし、きうり・なす・キャベツ塩もみと、白いご飯にフルーツがメロンでした。皆さん喜んで食べてもらいました。

七人のうち三人は交通事故や転倒などで何度か骨折し、骨粗しょう症もあって入院を繰り返した経過のある方々です。残り四人は脳血管の損傷で半身不随となり入院生活を送っていた方々。病院からもう治療するところはないといわれて園にかわった方一人と、退院して居宅生活を続けるなかで家族の事情で介護に欠けるようになった方三人でした。

明るい性格の方ばかりで若い職員との日常会話も笑顔ですぐ打ち解けあうことができました。七人の方々それそれに病気の程度や生活歴には違いがあり、園の処遇上で解決すべき課題も七人七様でした。しかしこの七人の方々のことをよく考えて園の毎日を組み立てることができれば、入園者の人数が増えニーズの多様化がすすんでも、初期の対応としてはほぼ全体にもこたえきることができるように思われました。

私はひそかにこの七人の方々を「七人の師」と仰いで、その言語動作に注目し園生活が「師のニーズ」に報いているかどうかを常に反省してみることにしました。いわず語らずに園の毎日は入園者を師とする気風で過ぎていきました。

師を仰ぎ、弟子が居れば、老人ホームも「学びの庭」に違いありません。

この小文に「長命学園」春秋記と題したのは、このような気持ちからでした。

(「長命学園」春秋記」終)

「創設期」を終えるにあたって」八年八月職員会議園長報告

いよいよ五八年八月も終わろうとしています。六月一日長命宴会園以来三ヶ月、何もわからない手探りのなかで、お互いに信頼しあって一生懸命努力をし、大きな事故もなく施設の創立期である三ヶ月を終えられるのは感謝に耐えないところです。

この三ヶ月間に入園者の定員八十人への到達をめざしましたが、八月二十三日現在在籍者五七人今月中の入園見込みを含めると月末在籍者は六十人と見られ、二十人も定員を割ることになり、収支の経理の上でも予算を大きく割り込む結果となりました。これは「バルン、鼻腔栄養、重度褥創」を入園判定の実践的基準とし、「収容依頼」に対し園としては収容を保留しているからでもありますが、収容措置決定に当っての行政側の措置権運用の上にも問題点が感ぜられます。

在園者を「介護要因疾患」別に見ますと、脳卒中後遺症の方が圧倒的に多く、三七名(男一五、女二二)六六%、骨折・骨粗しょう症等九(男一、女八)一六%、パーキンソン二(男一、女一)三%、先天性麻痺二(女のみ)三%、その他六名となっています。

つまり、圧倒的多数の方々が、高齢期に脳血管の損傷等の打撃を受け、個人の健康の被害はもちろん、家庭的にも社会的にも重大な障害を加えられたなかで、ようやく症状が安定し、これから長期に麻痺等の後遺症と闘う宿命を担っている方々だということです。

また少なからぬ方々が、高齢期に骨折等の事故による障害を受けたり、関節炎や骨粗しょう症なども発現して「寝たきり」となった方々です。この二つの類型で入園者の八割を越えます。

私たちは、これら入園者の一人ひとりに対して、その個性に見合った全人格的な発達を、権利として保障できる園つくりをめざしてきました。とりわけ各様の機能障害によって圧迫され萎縮されている状態からの解放のために園の施設と職員の力をあつめあうことは、それらの入園者の人間恢復をめざす貴い証しであると考えてきました。

この立場から、創立期の貴重な三ヶ月の実践を踏まえて前節で見た要因疾患による「被害(個人、家族、社会)」から人間性を再び恢復できるまで、疾患と個体とのかかわりの本体と特徴などの全面的で深い認識の上に立って、将来展望と当面目標を、一人ひとりのそして全体に設定しながら、さらに新しい特養のあるべき姿を求めて創造的な努力を続けたいと思います。

これは広い意味でのリハビリテーション実践の試行であり、これこそ老人医療の主役だということもできると思います。長命園に「医療」と「リハビリ」の要素を至急に充実させることが求められています。 以上、簡単ですが、三ヶ月を経た時点で私どもの課題となるものは何かを明らかにしておきたいと考え、まとめて見ました。

(「創設期を終えるにあたって」終)

にがい涙とたのしい思い出と(五八年十二月園長指示)

師走を迎え、本園も開設六ヶ月目に入ってきました。まだ僅かな期間しか経過していませんが、この間の職員の皆さんの努力により、先ずは順調に運営できたことを喜びたいと思います。

十二月からはナース日勤者を両村(二階平和村、三階ふるさと村)とも主任を含め三名以上の体勢で勤務していただくこととしました。理想としてはこの日勤者は主任と同じように交代勤務からはずして、主任とともに北欧に見られる「老人セラピスト」の役割を果たさせてはとも考えましたが、入園者処遇の「総論」と一人ひとりに対する「各論」における全職員の意思統一が充分に行われるならば、交代勤務職員によってでも北欧に負けない成果が上がるものと期待しています。

両主任ナース(多々納、山崎)を中心に看護婦、給食、訓練などの職種とも協力して両村とも入園者一人ひとりの処遇方針及び書く村単位、居室単位の週(月)間計画を明らかにしつつ、主任と日勤者が主力となって健康な園生活をつくり上げましょう。

十月一日から職員を交えての「全員会食」を実施し、全入園者の離床の徹底と食事の自立、全量摂取をめざしてきました。入園者への配膳を終了すれば職員は別室のひきこもるやり方を改めて、食事の介助をしながら職員もその場でともに食事をしようというものですが、二ヶ月で大きな成果が上がってきたと思います。

「自立」とは言うは易いが、行うには職員の涙と汗の介助なしには不可能です。そして「離床」とは、多くの場合適切な時間経過後には就床させることでもあります。食事の後職員休憩時間開始までに必要な全員の就床を見届けねばなりません。「全量摂取」を実現するには、入園者の疾病や障害の状況によっては、職員の特別な努力が必要となります。しかしこれらの労苦が実って、入園者の声に張りが出て笑顔が明るく浮かぶのをみると、その喜びは何にもかえられません。

食器、盛り付け、味付け、献立などについては、意見と知恵を集めて改善を続けます。今後も現行方式を続けながら、さらに工夫改善を加え、入園者の一層の健康の保持増進をはかりたいものです。

この五ヶ月間に入園者延八六名、家庭復帰二名、死亡三名。現在八一名在籍ですが、そのうち入院中の方が十一名(平和村三名、ふるさと村八名)にのぼっています。入院を余儀なくされた事例には、入園前からの褥創の悪化、骨折、膿瘍などです。食事の全量摂取を始めその方の商況にみあったっ処遇が確立できないうちに不明発熱、入院となった事例も一つだけあります。

その一方で、一つずつ事例をあげるのは省略しますが、職種を超えた職員の協力により、入院しなければよくならないといわれた方で、病状の好転と日常動作能力の向上をもたらしつつある例も数多く見受けられます。幾つかの恢復(向上)事例に共通した教訓としては、その時点のその入園者のためにどうしてもやりぬかねばならぬ介護作業、たとえばマット(おむつ)の随時交換、排泄の誘導、体位の変換、摂食介助などを交代勤務の全職員が一致して百%やりきったことなど、目的と展望をはっきりさせて処遇に取り組んだことをあげることができます。

単純に見える作業でも、そこに徹しきることで局面が打開できているのです。

(注、この時期には入園者の健康状況、生活意欲、気風が二階平和村と三階ふるさと村に微妙な差異が現れてきました。入院者数の違いがそれを端的に示しています。食事についていえば、入園者を居室から「つれ出し」て食卓につけ、配膳を終え食事を「あてがう」と所定の食事時間が終わるまで職員は別室に引っ込んで「自由」に摂食させる場合と、入園者が食卓についてからを処遇の正念場と考えて全員の状況を観察把握し、摂食状況の悪い方には食事をとらせるようあれこれのてだてをつくし、障害のため食事を口に運ぶのに困難のある人には介助して摂食を促進するなどの場合とを比較すると、十日もせぬうちに両者の格差は表面化してしまいます。この種のことが村生活のなかに生じているのではなかろうか、と心配した時期でした。「徹しきる」「やりきる」処遇例は平和村に続出していました。)

このような仕事に全職員が取り組んでいくためには、園職員側が掲げようとする展望(目標)が入園者本人のニーズとして自覚してもらえるよう充分なコミュニケーションをはからねばなりません。どんなによいことをしようとしても入園者に拒否されてはどうにもなりません。しかし一度入園者自身がその気になると日常動作能力の向上等は目の見張らせる場合があります。

入園者の人格を尊重し、充分な納得と理解の上に自発性が発揮できるよう配慮せねばなりません。意思疎通の最大の道具は言葉です。入園者は年上で人格は高く、識見は立派、経験は豊富です。 若い職員の言動に気にいらぬところがあっても、奥ゆかしく胸に収め、口に出して批判することは先ずありません。

命令調に聞こえがちな粗暴な言語態度は慎まねばなりません。高齢に加えて障害のために内気で引っ込み思案におちいりがちなお年よりとの園でのお付き合いは、職員の側が二歩も三歩も気持ちの上でへりくだって丁重を旨とすべきです。職員が動作能力で健常ぶりを誇示し、見せ付けることは年寄りを一層内気にします。障害あって小さな声でものを言っているお年よりに向かって、不必要に大声を出すこと、食堂や廊下で幾人もの頭上越しに大声で指図すること、なども避けるべきです。

次には個人プレーをやめ、園の機構の有機的でフルな運用を図るべきです。主任を中心に協議し、指示を仰ぎながら勤務することです。担当している居室の諸問題についても、園が担当者に白紙委任をしたものではありませんから、上司の判断や指示を受けながら取り組んでください。

(注2、居室担当制度は昭和59年度から廃止されました。)

入園者が、病院に入院することは「措置」変更の重大決定ですので、主任ナース、看護婦主任、主任指導員による協議と園長の決済(口頭及び文書)をえてから入院させることとします。

(注3、この頃上乃木町M氏が入園され、環境変化による興奮からかベッド臥床をきらい、発語不能と不慣れのためのコミュニケーション不能、食事はスプーンでの自力摂取を試みたが不十分、介助しても誤嚥あり、一部の職員の「知恵」で全流動食にしてしまい、誤嚥、拒食をつのらせることとなりました。全介助でおかゆからやり直そうとし、私自身も連日付き合いましたが、不明発熱あり入院となり、そこで死去されました。お粥と普通のおかずで三度の食事を介助されていた奥さんと、職員との「バトンタッチ」を何日か費やして試みるべきではなかったか、と今でも悔やまれてなりません。)

十一月は職員会を開かなかったので所見をまとめて、文書による五八年十二月度の「園長指示」とします。

悲報来

ある市営住宅の火災で焼死した一人住いの老人は、私が昔からよく存じ上げている方で、五八年秋には老人ホーム浩生寮に入居している奥さんから、この方の健康を気遣う電話をいただき、何度か連絡を取ったこともあります。

この方は、かって市内の矢田炭鉱(現在の松江道路矢田・山代インター付近に所在)の坑内夫で、年上の奥さんも評判の美人坑内婦、二人とも働き者でした。政府の石油優遇政治のため炭鉱がつぶれた後は、二人でこの市営住宅に住み、細々と暮らしを続けてきました。奥さんの年齢が六十を越えるころから、年下の主人に冷たく当られることが多くなりました。

堪えかねて奥さんが子どもの家に身を寄せていたときもありました。奥さんはついに決意して別居すると言い出し、私も相談に加わり、数年前から奥さんは浩生寮に入居、後には主人一人が残っていたのです。焼け跡の模様からすると自分で油をまいての覚悟の焼死との話です。奥さんから電話を頂いて、かれと一度電話で話したのが最後でした。このときかれは、「心配かけてすまんのう。元気だけんのう。心配いらんけえ。」と繰り返していました。

前後してMさんの訃報を聴きました。Mさんは脳卒中後の所謂痴呆老人、お世話をなさっている奥さんが看病疲れで腰痛をこじらせ歩行にも困難を生じ、市役所に相談され、昨年十一月長命園に入園されました。生活環境が変わり家族の顔が見えなくなったためか、Mさんは興奮状態となり、ベッドや車椅子から這い出そうとし、園の職員は部屋を変えてみたり、ベッドをはずして床に直接マットレスを敷いて布団を置いたり、いろいろ落ち着いてもらえるよう工夫しました。

Mさんは食事を摂取せず、職員を困らせました。家庭ではベッドに横になったまま軟菜とお粥をさじで口に運んでもらっていたとのことですが、園では食物を口に入れても咀嚼・嚥下をしないのでした。一部職員の考えで、「流動食」に変更、口に流し込んで摂取してもらおうともしてみましたが、嚥下障害は液体の場合にひどいという通例どおりで摂食改善に結びつきません。職員も「忙しい」ので一応は試みるが時間が来ると下膳してしまう場合も見受けられました。

やがてMさんは脱水のためか微熱が出没し始め、私たちはもう一度「お粥、軟菜」でどんなに時間がかかっても全量摂取を目標にお世話しようと、カンファレンスで申し合わせました。私自身も食事時間はこの方につきっきりで食べてもらう努力をしました。

そんな頃、私が出勤するとMさんは国立松江病院に入院されることに決まった、と突然の話でした。この朝おいでになった奥さんが、お茶をあげたら吸い飲み二杯分飲まれたとのことでしたが、その同じ器具を使って職員がお茶を差上げても、なかなか飲んでもらえなかったのです。

発語不能、意思疎通ほとんど不可のMさんの処遇に私たち一同悪戦苦闘したのですが、結局は「家庭と奥さん」に勝るものはどこにもなかったのだ、ということでしょうか。 Mさんの熱が下がり、園に帰ってこられたら、今度は奥さんのご協力もお願いして、食事の全量摂取と安定した毎日をと職員は話し合っていました。

しかし自民党の「行政改革」で徴収されることになった負担金は、本人と家族の二本立てで、仮に病院に入院した場合でも園に籍をおくと負担金を取られ、Mさんの場合はその額が大きかったので、ご家族の希望でMさんは入院された直後に長命園を退園する手続がとられました。

私たちにお世話する機会はなくなったのですが、Mさんの経過はとても気になるところでしたが、残念にもなくなったというのです。

私はこの二つの悲報を聞いて、もっとできることはなかったのかと反省しました。私たちの特別養護老人ホーム「長命園」が果たしていかなければならない責務についても改めて考え直しました。

二つの霊よ、安らかに。

(「悲報来」終)

「だった人」の施設です「長命園の生活と理念」

「寝たきりの方は何人ですか?」とか、「『ボケ老人』は何人ですか?」などと質問を受けることがあります。どちらも答えにくい難しい質問ですが、私は次の考え方を基本にして長命園の入園者お年よりの状況を説明して正しい理解をしてもらえるよう努力しています。

「寝たきり」とは何か、ボケとは何かということが、そもそも定義の難しい言葉ですが、私ども特養で仕事している人間としては、老人福祉法で言う「心身の欠陥のため常時介護を必要とし、かつ居宅において介護できない」人々を「寝たきり老人」と理解せざるを得ないと思っています。

これらの寝たきり老人、常時介護が必要な人々は、特養の生活のなかでそれぞれ条件付ながら「自立」をかちとっていきます。居宅では車椅子の乗れなかった人々が、段差のない滑らかなフロアとベッドによる園生活で、ベッドから車椅子への移動に慣れると、急速に「寝たきり」から解放されます。 狭い日本式家屋の居宅においては脳卒中後のお年よりにできる最大の家族への協力は、多くの場合に「寝たきり」になってしまうことのようです。

家族の手を煩わさないようにおむつに堪え、あてがわれる食事を黙って口に運んでもらう生活を受容する、「寝たきり」老人はこのようにつくられもします。寝たきり生活は短い期間に新しい身体障害をつくりだしさえします。

このように「つくられた寝たきり老人」は、特養において職員の適切な援助があれば、見違えるような「自立」を短期間にかちとることができます。ですから、「寝たきりは何人いますか?」と問われた時のお答えはこうなります。

全員が寝たきりだった人です。しかし長命園では大多数の人々が職員の援助でほとんど自立に近い生活をしています。今の時点で、背中を朝から晩までベッドにつけて暮らしている人は本の数人です。しかしこれらの方でも病気になったり、居宅に帰ったりすると、もとの寝たきり老人に戻ってしまうかもしれません。

「ボケ」(老年性痴呆)というのは老人性の脳細胞の変化のために起こる人格障害の一つです。「徘徊、暴行、いたずら」などで家族や介護者をてこずらせる事例のほかに、時間がわからない、他人の言葉が理解できない、受け答えができないなどを「ボケ」と証していますが、これらの「ボケ」は一度なったらもとに返らぬ固定したものではありません。

程度の差はあってもお年より全体にみられる現象といえます。

長命園での実践の中でも、妄想・幻覚があって大声で騒いだり、棒を振り回す事例とか、寝込んで泣き叫び続ける事例が、入園直後や外泊直後に突発した経験を持っていますが、いずれも適切な処遇をつくり出すことでほぼ恢復できています。

「ボケ老人は何人いますか?」との質問には、「大なり小なり皆がボケであったりボケになる可能性を持ったりする人々です。皆さんの周囲と同様に・・・」としかこたえようがありません。「ボケ」現象のどれかを示しての具体的なご質問なら該当例の有無は的確にお答えできるでしょうが。

特養とは、寝たきりとボケの収容施設と思い込んでいる方もありますが、これは「寝たきりだった老人、ボケだった老人」の施設だということ。そして施設を離れるとすぐにも「寝たきり」「ボケ」になるかもしれない老人のための施設だと知ってほしいものと思っています。

(注、「長命園の生活と理念」は昭和五九年三月二二日、見学者のためにまとめたもので、一、「寮母」を「ナース」とあらためたこと。二「発達保障」を基本理念として。三、「だった人」の施設です。四、特色ある暮らし。の四章からなっているが、ここではその第三章だけを紹介した。)

(「だった人」の施設です「長命園の生活と理念」終)

「春が来た・はるがきた」

家族とはなれて入園したお年よりで「家に帰ってみたい」とおっしゃる方があります。かえるべき家のない方でも「帰ってみたい」気持ちはつよいようです。

五八年末、始めて迎えるお正月を前に長命園では入園者の身元引き受け者の方と連絡を取り正月帰省の予定表を作成しました。入園者のほぼ半数の方は、正月を長命園で過ごすとおっしゃいました。帰省を申し出られた方は年末に親族の方々の迎えを受けて家路に向かいました。

正月三ケ日を終えて帰園される人々の顔つきは、晴れ晴れとした笑顔でした。

一人だけ帰省先の自宅から園の自室に帰ってすぐにまるで何かにとりつかれたかのように泣き叫び続ける方がありました。わけを聴いてもまとまった話はできず、何かを訴えるように途切れ途切れに叫び、泣き続けるのです。夜ねむる時もかけ続けていた眼鏡もどこかへ放ってしまい、泣き続ける涙で眼のまわりも腫れ上がるほど。

何より好きだった三度の食事にも興味を示さず、義歯は上下ともはずしっぱなしのままでした。 同室の方の話では、誰かにひどいことをされたのを思い出したのでは、といいます。途切れ途切れの言葉の端々から、そのような感じがするというのです。もちろんそのような事実があるわけはありません。

自力でトイレに行けていたのに、立ち上がる気力もなく寝たままの暮らしになり、膀胱炎で発熱、入院となりました。熱が引いて退院されてから、もう一度自立できるよう職員は懸命に介助と指導を続けました。

ようやく三月末になって職員と一緒に「春が来た」の歌が歌えるようになり、朝礼でも繰り返し歌いました。箸を持って食事できるようになり、足元もしっかりして、この方に本当に「春が来た」のは正月帰省以来四ヶ月を経てからでした。

 

(「春が来た・はるがきた」終)第一章終